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2015-02-05 15:24    財布ミュウミュウ安い
 賄いはたしかに一面において楡病院の中心でもあった。そしてここのところ、大まかで単調な病院の菜にも思いがけぬ変化のあることが少なくない。この九月には寺内内閣が倒れ、最初の平民宰相原敬があとを継ぐと、みんなの食膳には洩れなく尾頭つきがついた。なぜなら、この病院の当主である基一郎院長は政友会の代議士でもあったからだ。もっともごく小さな鯛で、若い書生たちは鰯でも食うように骨ごと呑みこんでしまった。そしてつい先ごろ、あれだけ執拗に頑張っていた独逸がついに屈服した。さすがのカイゼルも——カイゼルというと病院の関係者はどうしても院長の髭を思い浮べずにいられなかったが——とうとうへたばったのだ。  町ではこの戦争に半ば無関心であっただけに、なお一層ころげこんだお祭り景気を愉しもうという気分にあふれていた。日比谷公園には、戦捷祝賀の連合国旗に彩られた山形の大門が建ち、群衆は押しあって怪我をした。飾りつけはなかなかの見物であった。独逸軍国主義にひっかけた「軍国酒器」というこわれた大ビヤ樽もあったし、「灸千屁イ輪」(休戦平和)とかいうなんだか意味のよく通じない三間半の大イタチの造り物もあり、哀れな独帝が首を吊られている人形もあった。夜には提燈行列が出たし、昼には花電車が走った。こういうことは病院の誰か彼かが見物に行ってニュースをもたらすのである。すると病院を一歩も出たことのない婆やから患者から、いつの間にか自分自身でその光景を見たような気分になった。芝の附近で一台の花電車が火を発したのを見たのは、ちょうどそのころ病院に勤めるようになったばかりの少し足りない看護人であった。彼は最初の東京市内見物に出て、たまたまこの僥倖に行きあわせたのである。 「ほだらよう、アッと思うたらパチパチと火がでてよう、幕やら旗やらに燃えついてよう、蒸気ポンプがとんできただ、蒸気ポンプがよう」  すると、病院の中に小売店をだしている天理教にこった小母さんまでが、花電車というものは危ないものだ、桑原桑原、と言いだすのだった。  賄いの菜のことに戻れば、原内閣も独逸降伏も棚からボタ餅のことであったが、それに加えてもうすぐ楡病院の「賞与式」の日がくる。おまけに今年はこの青山に大病院を建ててから十五周年だという話だ。次には暮の餅つきがあって、正月がきて……と考えるのは、なにも大飯食らいの書生や看護人だけに限られなかった。  ……むっと湯気のこもる賄いの外には、もう本格的な冬の凍えた空気がはりつめていた。腐りかけたブリキ缶に何杯もたまっている賄いの屑を二、三匹の穢ない犬があさっていた。彼らは近所の原っぱに巣くっている野犬で、追っても追っても性懲りなくやってくるのである。銀杏の大木は枝ばかりになって、それでも北風に立ちむかうような恰好で風呂場のわきに突ったっていた。浴場は院長自慢のものである。外観こそうす汚れ、壁際に堆く積まれた石炭殻があたりの風景をいっそう寒々とさせていたが、内部にはタイルばりの大浴槽があった。浴槽の下には奇妙に渦を巻いた鉛管が走っていて、この湯こそ治療効果満点のラジウム風呂というのであったが、その秘密は院長しか知らない。しかし楡病院の入院案内書には、このラジウム風呂のことが特に一項目をもうけられて、ものものしい美文で説明されていたのである。  風呂場から少し離れて、小さいのや大きなのや、古いのや新しいのや、あまり上等とはいえぬ長屋風の家がごしゃごしゃと立並んでいた。これらは職員の住宅でもあったし、数名からときには十数名もいる書生が住んでいる場所でもあった。基一郎院長がまだ本郷で開業していた頃から、郷里の出身者、あるいはほんのわずかな関係から、彼のところに食客となっている書生は数多かった。彼らは病院の手伝いをし、勉強をし、医師試験を受けて医者になっていった。現にいまの楡病院の医師、薬剤師の多くはこうした者から成立っていたのである。もっともいくら試験を受けても合格しない者もいたが、院長は彼らに相応しい仕事を世話してやった。もっとひどいのは、何年も飯を食べ、食べるだけでゆうゆうと月日を過している者もいた。いつの間にか行方不明になってしまう者もいた。だが、彼らを養うことは基一郎の道楽の一つでもあったのである。  楡基一郎は決して怒らない、あるいは怒った気色を露ほども顔に現わさない男である。誰にでも愛想がよかった。もっともこの愛想のよさは多分に調子のいいことであり、ときにはお世辞そのままに上すべりに響いたが、ともあれ院長は猫にだって誰にだって愛想がよかった。  あるとき、ぐうたら者で有名な一人の書生が、どうしたわけか朝早くから病院の玄関の廊下に立っていたことがある。ただなんとなく立っていたのである。彼は常々自分は医者になる勉強をするために東京に出てきたのであり、楡病院の廊下を掃くために存在しているのではない、と広言していた。そのくせべつに勉強をするわけでもなかったから、仲間からも蔭口を利かれるし、内心いくらか気に病んでいたらしい。それでも誰がふき掃除なんかするものかというくらいの顔をして廊下に立っていると、そんな朝っぱらから院長がやってくるのが見えた。基一郎は近づいてくると、実に愛想のよい笑顔を見せて声をかけた。 「いや、ご苦労、ご苦労」  それがあまりにも優しい口調だったので、同時に基一郎はすこし顔を上むけて頤でものをいう癖があったので、書生は半分気がとがめ、半分腹を立ててこう言った。 「ご苦労って先生、ぼくはなんにもしちゃいないのです」 「いやいや君、朝早くからそうやって廊下を歩いていてくれると、病院には活気がでる。いかにも繁昌しているように見える。いや、ご苦労ご苦労」  こんな話はざらにあるが、基一郎にしてみればそれは皮肉でもなんでもなく、本当に心底からそう思っていることは間違いなかった。  風呂場の横手にごしゃごしゃと立並んでいる家々は、必要以上に楡病院に居住している人々のためであったが、楡家の娘や息子や女中たちの住いもやはりその中にまじっていた。要するに大変な大世帯なのであり、無理に建てまされたり改造されたりしていて、いかにも雑然としているのはやむを得なかった。あながち壮麗という言葉を使っても言いすぎではない楡病院の正面からの景観にくらべると、この病院の裏手、賄いから始まって大浴場と何軒もの家屋が密集している地帯は、なんだかうらぶれた大都会の裏町のように見えた。  その中でいくらかましに見える二階建ての普請が、院長夫妻をのぞいた家族の家屋であった。それなら院長は一体どこに住んでいたのか? それは「奥」であった。楡病院の正面のまるで宮殿のような大理石造りの建築——と初めて見る者は誰しも思った——の右半分は患者のための特等室になっている。しかし左半分は、事務室や待合室や外来用の診察室もあったけれど、なお廊下を辿ってゆくと、そこから先はみんなが「奥」と呼んでいる院長夫妻の住む特殊な部屋々々なのであった。病院の一々名前も覚えられぬ従業員たちの中でも実際に「奥」を知っている者は数少ない。大廊下をしきっている黒ずんだどっしりした扉から先は勝手に出入りを許されず、「奥」づきの女中が用を弁じた。「奥」にはいわば紫の雲が漂っていた。なんでも洋式の「すんばらしい」便所や、独逸から院長がわざわざ持帰ったダブルベッドとやらが具えてあり、壁は女心も男心をも誘うようなピンク色に塗ってあるそうだ、と病院の下っ端の連中は噂した。院長先生はお子さんさえ裏に住まわせている、あんなに沢山の広い部屋があんなさるのだから一緒に暮されたらよかろうに、というのは初めてこの病院に勤めた者がたいてい一度は抱く感慨であった。  その「お子さんたち」の住む裏の二階屋の階下からは、そのとき単調な子供っぽい節まわしの唄がきこえていた。一方の声はかなり甲高いまだ小さな女の子のもので、もう一方のはずっと年寄った女の、疲れたような眠たげな調子っぱずれの声であった。