クロエリリィバッグルビー
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null「いらしてました。九十三といっても、まだまだ三十年も生きられそうな若さですよ、あの方は」  いってから、哲也は雅志の肩に手をかけ、 「雅志君、ぼくねえ、きょうは雅志君が偉いと思ったなあ。ビリでも、ころんでも、最後まで走ったもんねえ。きょうの運動会の中で、いちばんよくやったのは、雅志君だな」 「ほんと? お兄ちゃん」  雅志は驚いて哲也を見あげた。 「うん、ほんとうさ。感心したよ。一人で立ちあがった雅志君も偉いが、雅志君の立ちあがるのを待っていたあの先生も偉いなあ」  富喜枝と美図枝が、あいまいな微笑を浮かべた。が、景子は深くうなずいていった。 「ほんとよねえ、わたしもそう思ったわ」 「そうですか。ぼくね、実は、雅志君のあのときの写真、ぱちりとやったんですよ。雅志君、君の先生も一緒にはいっているよ」 「あら、いやだわ。ころんだところを撮られたなんて。ねえママ」 「そうね。あまり名誉なことじゃないわね」  富喜枝はあでやかに笑って、じっと哲也を見つめた。哲也は気にもとめぬふうに、雅志の肩に手を置いたまま歩き出し、 「奥さん、人間ころぶのは、ちっとも不名誉じゃありませんよ。ころんだことのない人間なんて一人もありませんからね。病気、進学の失敗、事業の失敗、失恋、人生にはいろいろなころびがありますよ。不名誉なのは、ころんだことじゃなくて起きあがれないことじゃないんですか」 「まあ……哲也さんて、ねえママ、景子の喜びそうなことをおっしゃるわねえ」  美図枝は笑った。哲也は悪びれずにいった。 「多少、景子さんに聞かせる気持ちもありました。正に図星です」  いやみのないそのいい方に、富喜枝も美図枝も、景子も笑った。雅志まで笑った。雅志は大きく口をあけて、ひどくうれしそうに笑った。そんな雅志を見るのは、珍しいことだった。 「じゃ、ぼくはここで失礼します」